【言葉は国の手形なんて昔の話】
おはようございます。 俳句作家の上野貴子です。
その方の訛りはその方の生まれ故郷を表す 言葉は国の手形 なんて言い方をしていましたが
「新文章読本」川端康成作を読んでいます。
流石の文豪ですね。感覚が古臭い感じがしません。
~「歌わない詩人、書かざる小説家、というようなことを言うが、これは言葉の綾の上では言い得ても、実際は不可能なことである。」抜粋~例えばこの一部分を取っても内面と表現との葛藤が感じられるし、「小説は書かれて、はじめて小説として存在する」という表現されてこそ作者が存在するというような表現の自由を感じさせられます。すごく勉強になります。
5月の鎌倉へアンチエイジウオーキングにいって来ました。
鎌倉は新緑が美しく、とても楽しい散策コース。
お昼に大根料理を頂き、寛いだおしゃべりタイムを頂きました。
そんな、新緑のこの頃、何となく考えています。
心の中にいる自分を大切にしてゆきたいと、
想いを伝えるだけでなく、
想いを自分の心に刻みたい。
それは、漠然とした事ではなくて、
例えば、俳句を通して、 表現したい想いがあるはず。
それは、心の奥との対話かな? 私は何を言いたいのかな?
そんな事を考えています。
大きな理想でもいい。
大きな社会問題でのいい。
だけど、そこには、私がどう想い考えているのかが解らなければ自分自信の行動にならない。
俳句が私の伝達や表現の要だけれど、
俳句は言葉を使う文芸。
そんな、言葉の表現が適格に伝わる作品が詠めたらいい。
でも表現?何を? そう、だから、自分の想いがいかに表現できるかです。
やはり、何よりも重要なのは、私自身の考えていること、想うこと、
結局、文章論の何より大切な要は心の中にある自分が言いたいことなのかな?
それを解り易く伝える。
理解できるように表現する。
それが文章なのかもしれません。
(2015・5・24)